私の黒い備忘録

私の真っ黒で、とても人には自慢できない、最低な人生を綴った日記

私の幼少期③

私は小学校に馴染めませんでした。

どちらかといえば都会の方にある小学校で、人数が多く、華やかで裕福な子供が多い小学校だったからです。

 

純和風な祖父母の元で育った私は、よくいえばお淑やかだったのですが、つまり内気で物静かな人間だったのです。

 

それを心配した1年生の時の担任が両親にそのことを連絡し、私はとても怒られました。

 

なぜ友達を作ろうとしないのか。

なぜ自分の殻に閉じこもっているのか。

 

交友関係も華やかな両親からすると、私は異質なものだったのです。

 

心配して両親は、私にたくさんの習い事をさせました。

バレエやピアノ、公文、水泳など…

 

私はどの習い事も好きになれませんでしたが、友達を作らないとまた両親に怒られてしまうととても怖くなりました。

 

必死で笑顔を浮かべているうちに、ポツポツ友人も出来始めて、なんとか小学校の低学年は修了しました。

 

私はとても疲れました。幼いながらに、しんどい、苦しい、疲れたと訴えました。

 

父母は私のためだと言って習い事を続けさせました。

 

私が小学校の3年になった時、弟が小学校に入学しました。

 

弟は3年離れて暮らしていたのにも関わらず、幼い頃は私によく懐いていました。

 

それは弟が病気だったのもあるのでしょう。

幼い私に詳しいことを教えてはくれませんでしたが、弟はなにやら足の病気だったようで、幼稚園の時は入院や手術を繰り返していたそうです。

 

私を呼び戻したのも、弟の病気が完治したというのも一つの理由だったのかもしれません。

 

私は弟が妬ましくて憎らしくて仕方ありませんでした。

なぜ、弟は私がされなかった父母の愛情のもとで育っているのだろうか。

成長した今となって分かったことですが、私は嫉妬心から幼い弟に執拗ないじめをするようになりました。

私の幼少期②

祖母に預けられていた3年は軽い地獄でした。

とても躾に厳しく、大和撫子と亭主関白を絵に描いたような祖父母のもと、私は涙を堪えて過ごしました。

たとえば、食事中に肘をつくとリモコンで肘をはたかれました。

たとえば、お箸の持ち方が汚いと何時間でもネチネチ言われました。

たとえば、食前にお菓子を食べると二度とお菓子を買ってもらえませんでした。

しかし、祖父母は厳しいだけではなく、優しさを併せ持ついい人でした。

祖父は寡黙でしたから分かりにくかったけれど、雷が怖くて泣いていたら、無言で煎茶を出してくれるような。

祖母はいつも笑顔で、私のマナーに怒る祖父をまあまあと宥め、泣いている私にそっとハンカチを差し出すような。 

 

お陰で今でも私は所作が美しいと褒められるのですから、三つ子の魂百までとは言いますが、幼少期のしつけが良かったんだなあと今でも思ったりします。

 

幼稚園では友達もでき、最初は怖いばかりだった祖父母にもだんだん打ち解け始めた年長の時のこと。

 

父母が小学校からは流石に自分たちの元で育てたいと祖父母に言ったそうです。

 

少し寂しそうにはされましたが、子供は父母の元で育つのが一番いいと祖父が頷き、私は東京の両親の元へ帰りました。

 

今から考えれば、それは祖父のひどいミスだったのでした。

私の幼少期①

私は外資系企業に勤めるバリバリのキャリアウーマンである母と、某不動産会社で営業をしている父のもとに生まれました。

 

母は有名企業の中でも若くして花形の部署で活躍し、年収は1000万を超えるパーフェクトウーマンです。

生まれは京都の名家で、私の母方の祖母は茶道の有名流派でも上の方にいる人でした。

そんなお嬢様育ちながら、京都の超お嬢様学校を卒業し、有名大学に進学し、就職氷河期ながらサクッと内定を貰えるような。

 

母はそんな完璧な経歴をもつ自分をとても誇りに思っているような人でした。

低学歴と言われる人間をよく馬鹿にしていました。

そして、幼い頃から私と弟にも、自分と同じ人生を歩むように求めました。

 

幼少期から名門校に受かるべく、たくさんの習い事と塾をかけ持ちさせられました。

 

今でもはっきりと覚えていることがあります。

弟を妊娠したと分かった母は、育休をとるかとらないか、父と真面目な顔で話していました。

 

当時私は幼稚園に入ったばかりで、ほとんど話の内容もわからなかったのですが、何故かその光景だけは鮮やかに覚えているのです。

 

ちなみに、私の時は産休だけで育休はとっていませんでしたが、手のかかる子供が2人に増えたのだから、さすがに今回は育休をとらなければ不味いだろうと父が言いました。

 

すると、母はこう言いました。「今、ちょうど昇進に繋がる大事なプロジェクトがあるから、弟が生まれたら私を祖母に預けよう」と。

 

あとはもう覚えていません。

しかし実際、私は幼稚園の3年間を祖母の元、京都で育ったのですから、父も反対しなかったのでしょう。

 

それが、私が覚えている、1番古い母の記憶です。